収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち、という話。

アートの大きな効能の一つは「死への恐怖を和らげてくれること」だと思ってる。

収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

 

先週末の東京日帰りツアーに合わせ、大好きな銅版画家・南桂子さん(1911〜2004)の企画展に行ってきました。

会場は東京メトロ半蔵門線「水天宮前」近くの小さなミュージアム「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」南桂子さんは富山県生まれで、同じく銅版画家の浜口陽三さんとの出会いをきっかけに1953年にフランスへ渡り、銅版画の作品を作り続けたアーティストです。

 

少女や小鳥、樹々、花、お城、魚などをモチーフにした、繊細で透明感のある作風が特徴。春のコレクション展では、芽吹きの季節にぴったりの、優しい色彩の作品を中心に約50点が展示されています。

企画展のフライヤーまでもがアートのよう。配色もフォントも、とことん素敵…

繊細な線で刻まれた水辺や森、お城、お花畑。行ったことのない場所なのに、なぜか「懐かしい」と感じてしまう不思議な作風。初めて南さんの作品を見たのは2011年、生誕100年記念展でした。

当時は長女を出産した直後。賑やかそうなのに無音、温かそうなのに冷めている…相反する要素が詰まった南桂子さんの世界観に魅了され、それから彼女の企画展が開かれるたびに「ミュゼ」へ足を運ぶようになりました。

南桂子さんの画集は宝物です

 

少し話は飛びますが、皆さんが「人間はいつか必ず死ぬ」ということを認識したのはいつ頃でしょうか。私は小学校入学前、4歳か5歳ごろだったと思います。保健師をしていた母の県外出張に一緒に連れて行かれた際、研修会場の隣に設けられた託児室でのことでした。

保育室には同じように子連れで研修に参加した母親の子供たちが数人いて、私は保育担当者と一緒に絵を描いたりブロックを組み立てたりして遊んでいました。

託児室は大きな道路に面していて、ふと顔を上げた時に、ちょうど金ピカのお寺の屋根のようなものを載せた大きな車が通り過ぎるのが見えました。

保育担当者に、あの車は何か、と尋ねると、「れいきゅうしゃだよ」と言われました。

「れいきゅうしゃ」とは「亡くなった人」を載せて「火葬場」に運ぶ車だということ、「亡くなる」とは「死ぬ」ということ、「人間は必ず死ぬ」ということ、そして「死んだ人は骨にして、お墓に入れる」ことを告げられました。

 

母親も死ぬ。自分も死ぬ。「人間には、いつか必ず終わりが来る」ことを知ったこの日から、私の呑気な幼児期は幕を閉じたのだと思います。この日はかなり打ちのめされて、研修から戻った母に「死にたくない」と泣いて訴えたのを覚えています。母親にはその後しばらく「どうせ死ぬのになんで生まれたのか」「人間は死んだらどうなるのか」と質問しまくっていました。めんどくさい子供だったな。

「人間は死んだらどうなるの」に対する母親の回答は「死んだら『無』だよ。上も下も右も左もない『無』になるんだよ」というもので、これに私はさらに打ちのめされたのでした。多感な幼児に対してさえお星様になるだとか、生まれ変わるだとか、千の風になるだとか言わなかった母に拍手を送りたいと思います。

 

「無」は正確に想像できなくて、だから怖い。今でもやっぱり怖い。

私はいつでも「死の恐怖を和らげてくれるもの」を探しています。

「死ぬときに隣にあったらいいな」と感じられる、美しくて楽しくて優しくて肌触りが良くていい香りがするものを集めておきたいと思っています。

 

長くなってしまいましたが、南桂子さんの作品は、私にとって「死の恐怖を和らげてくれる」存在です。世界は美しく、柔らかく、信頼に足り、そして永遠ではないのもまた良し、と思わせてくれる。

 

どんなに家を綺麗に整えたって、命がなくなってしまえば「それで、おしまい」です。

明日死ぬかもしれない自分を自覚して、だから生きているうちはできれば美味しいご飯を食べたいし、温かい布団で眠りたいし、悪意のない人間に囲まれて愉快な時間を過ごしたい。そのためには世界の平和が必要だし、世界の平和は個々人の幸せの集合体でしかないので、私は私を幸せな状態に置くことを目標に粛々と可能な努力するのみです。

 

南桂子さんの銅版画展「春」は5月19日まで。

お近くの方はぜひ訪ねてみてほしいよ▽

ちなみに今日のブログのタイトルは、敬愛する山田詠美さんの小説から拝借させていただきました。死の恐怖を和らげてくれる言葉とアートがこの世にあって、良かったと思う。

 

いつか必ず、それもしばしば突然に終わる命を自覚して、できれば愉快に過ごそうね。

明日も愉快な人生を〜