収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

「努力と才能と運を超えた過大な欲求」を諦めて、気楽に生きましょう。

収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

昨日のエントリで「高齢者は体力と判断力があるうちに、ある程度の都市部に移居した方が良いのでは」と自論を展開しましたが…▽

yuringo738.hatenablog.com

こちらに関連して、思い出したエピソードがあるので付記します。

子育て世代向けの生活用品を製造販売する、小さな雑貨メーカーの企画部門で働く友人の話です。ある日、かなりの高齢女性から「⚫︎⚫︎(商品名)が欲しい」と電話がかかってきたそう。

 

その商品は一部店舗で取り扱いがあるものの、オンライン注文(クレジットやキャッシュレス決済のみ。配送時の代引き等の対応は無し)を中心に展開している商品。(何かのチラシを見たのか、どこかで実物を目にして自分も欲しいと思ったのか。その高齢者がメーカーに電話をかけてきた経緯は分かりません)

 

友人が取り扱い店舗を案内したところ「自分は90歳で、近くに店がない場所に住んでいる、車は運転できない」。自社のオンラインショップや通販サイトでの購入を案内したところ「自分は90歳で、そういうの(オンライン注文)はできない」「携帯電話も持っていない」。仕方がないのでスマホやPCを操作できる知人に頼んでみてはどうかと提案したところ「他人に迷惑をかけるのは心苦しい」…。

…では、どうしろと…?

高齢女性は「どうにかならないか」と粘ったものの、友人は丁重にお断りして電話を切ったそう。

単価が数百円の商品ひとつをやり取りするために、紙の請求書を郵送し、振り込みの有無を管理し、個別に包装・郵送の手配をすることはできないとの判断です。

そもそも、少人数でやっている小さな会社が、業務を効率化するために「オンライン中心」で販売している商品なのです。

手間暇をかけて「高齢者への親切丁寧な対応」をしたならば、それは見方によっては「美談」になったのかも知れません。しかし、商品の売買はビジネスです。代引きや銀行振込しか決済の手段がない人は、冷たいようですがその企業にとって「お客様」ではないのです。

 

もちろん、憲法25条で全ての国民には「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)が保障されています。国には、国民の生活を保障する義務があります。

 

しかし、社会はアナタの保護者ではありません。生存権の範疇を超えた願望を、社会に対して無尽蔵に求めることはできません。いくら高齢者優遇の日本であっても、寝転がっていれば欲求が自動的に全て満たされ、ちょっとの不便と不快までもが適切に取り除かれ、欲しいモノは電話ひとつで配送され、自分の望む決済方法で支払いができるなんてことはありません。周囲が自分の欲求に合わせて完璧な環境を整えてくれるなんてことはありません。

 

「国が保障する以上の快適さ」を求めるのならば、高齢者であってもスマホの操作を覚えたり、徒歩で店舗にアクセスできる都市部に引っ越したり、困ったときに助け合える人間関係を築く努力も必要になります。国が保障する生活レベルの水準を上げるよう、政治的なアクションを起こすことも「努力」の一環になるでしょう。実際に、そうした社会的な権利を主張し続ける人がいたからこそ、社会のさまざまな不便や理不尽を解決するための法律が整備されてきました。

 

ですが、欲求を満たすための自発的なアクションが億劫ならば、一番手っ取り早い手段は「自分の能力を超えた欲求を諦めて生きること」だと私は考えます。スマホが使えないなら、スマホでしか注文できない商品はこの世にないものと思って生きる。徒歩でしか移動できないなら、徒歩圏内で手に入るモノで満足して生きる。他者に頼みごとをするのが心苦しいなら、自力で対応できない物事は潔く諦める。

 

社会や他者に期待して、要求が満たされずに落胆したり被害者意識でいっぱいになったりするくらいなら、「己の運と能力と努力の範囲を超えたら諦める」マインドが楽ちんだと考える低燃費な思考の私です。

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地球はアナタのために回ってはいないので「あれが足りない!これが足りない!」ことばかりでしょう。欲しいものは手に入ればラッキー、手に入らないのはご縁がなかったと割り切るくらいでちょうどいいのでしょう。

手に入らないモノを数えて落ち込むより、「手持ちのカード」で対応できる最大限の幸福の実現を目指しながら、気楽に愉快に生き延びたい。

他者に期待するより、諦める方が楽ってこともあるよ。

 

明日も愉快な人生を〜