収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

「車がないと不便」は免罪符になりません。

収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

本日の朝刊に「住む場所」について改めて考えさせられる二つの記事が載っていました。

 

一つ目は、春のバスダイヤ改正

路線バスの平日の運行本数が、3月から現在より134便も減るとのこと。午後7時以降の夜間帯を中心に大幅な減便となります。

大規模な減便の背景には慢性的な運転手不足と、4月から運転手の残業上限が規制される「2024年問題」への対応があります。人口減に伴い、労働力不足に拍車がかかることが予想される中、現行のサービスを維持し続けるのは困難です。公共交通の減便や路線廃止の流れは今後も加速していくでしょう。

 

二つ目は、高齢ドライバーによる重大事故。

下校中に横断歩道を渡っていた小学2年生3人が、88歳の女性が運転する軽貨物車にはねられました。このうち2人が重傷で、1人は軽傷。3人とも命には別状がないとのことで、それは本当に不幸中の幸いです。

「車がないと移動できない不便な場所」には、高齢者は住むべきではないと私は考えます。高齢ドライバーによる重大事故、特に子供が被害に遭うケースには「またか…」と怒り混じりの溜息が出ます。

過去記事もご参照ください▽

yuringo738.hatenablog.com

「公共交通の減便」と「高齢ドライバーの重大事故」

この二つのニュースの背景には「人口減に伴う労働力不足と高齢化」という大きな社会問題があります。地域の公共交通が縮小すれば「移動の手段がない」という理由で判断能力が衰えているにも関わらず運転を続ける高齢者が増えるでしょう。これは特に周辺部で顕著になると考えられます。

 

高齢ドライバーが加害者となってしまう悲惨な事故を防ぐには、「判断力のあるうちに」運転免許を返納するほかありません。そして、「判断力のあるうちに」医療や福祉、スーパーやドラッグストアといった生活のインフラが維持されたある程度の都市部に移住することが不可欠でしょう。

「年齢や能力に関わらず、居住の自由、移動の自由は基本的人権として認められるべき!」との主張もあるかもしれません。しかし、人口が増え続けた時代ならいざ知らず、生産年齢人口の激減が確実な今の状況では「誰でも・どこでも・快適な暮らしを享受する」ことは不可能です。

 

車を運転する限り、誰もが不幸にして加害者になる可能性があり、そのために保険に入り「万が一の事態」に備えます。ですが、高齢ドライバーが人生の最終盤で重大な過失を犯してしまうことは、被害者だけでなく加害者本人もその家族にも大きな傷となります。「車がないと移動が不便だから」は免罪符になりません。

判断力が残っているうちに、「車がなくても暮らせる場所」に移動しておく必要があると考えます。

ただ、あまりに高齢になってからでは賃貸への入居は困難でしょう。やはり60代がタイムリミットのような気がします。その際、将来に介護が必要になった場合のことも、合わせて考えておく必要があります。

 

加齢に伴って身体能力や判断能力が衰えるのは仕方がないこと。

自然の摂理と受け止めて、辛くても悲しくても「自由を手放す決断」をしていかなければいけない。

若さはいずれ失われ、体力も判断力も衰える。身体の自由も失われる日が来る。そして、人口減と労働力不足が加速度的に進むこれからの日本には、高齢者が「どこでも・いつでも」快適に暮らせるようなサービスを提供し続ける余裕はないということ。安全に暮らすためには、ある程度の都市部に集まって住み、社会の仕組みを効率化させる必要があります。

 

人生の時間には限りがあること、いつか「自由」を手放す決断をしなければいけない日が来るかもしれないことを、心に留め置くことが大事。そんなことを、二つの記事から考えました。

 

そして「時間に限りがある」からこそ、人生でやりたいことはできるうちにやる。今やる。そゆこと。

明日も愉快な人生を〜