弱き者の犠牲の上に強き者が栄える世知辛い世の中です。
「弱者が最悪を回避して生き延びるヒント」を与えてくれる、超絶ダークな青春小説を紹介させてください。
あらすじは以下▽
一人の少女が壮絶なリンチの果てに殺害された。
その死体画像を見つめるのは、彼女と共に生活したことのあるかつての家出少女だった。
劣悪なシェアハウスでの生活、芽生えたはずの友情、そして別離。
なで、心優しいあの少女はここまで酷く死ななければならなかったのか?
些細なきっかけで醜悪な貧困ビジネスへ巻き込まれ、運命を歪められた少女たちの友情と抗いを描く衝撃作。『FEED』改題。
(裏表紙より引用)
物語は、不潔で雑多なシェアハウスで同居する二人の少女を軸に展開します。
二人の共通点は「毒親育ち」であること。
それぞれが着の身着のままともいえる状態で家出し、貧困状態の老若男女が集まる劣悪な環境のシェアハウスにたどり着きます。
この小説の大きな主題の一つが「二人の少女の運命を分けたものは、何だったのか」ということ。
物語の冒頭で、一方の少女Aがあまりに無惨な最期を迎えることが明示されます。
読み進めると、「最悪の結末」を回避するチャンスはどちらの少女にもあったことが分かります。では、劣悪シェアハウスという最底辺へ堕ちた二人の分岐点は何だったのか。
この「運命を分けた要素」を考える上でヒントになるのが、物語の中盤で登場する、ある喫茶店の女性オーナーが発した下記の言葉です
「弱さは罪じゃないっていうけれど、そんなの嘘よ。馬鹿は罪、弱いのも罪」
(「少女葬」179頁より引用)
この女性オーナーとの出会いは、もう一方の少女Bが最底辺から抜け出す重要なきっかけとなります。
「馬鹿は罪」。少女Bはこの台詞を反芻し、考えます。
愚かで弱くて、食いものにされつづける人たち。(略)他人に屈することに甘んじてしまう人びと。彼らは自業自得の罪人で、三津子のような輩が賢く正しいというのか。
(「少女葬」186頁より引用)
三津子というのは、劣悪シェアハウスで「お母さん」と呼ばれる中年女性です。酔って醜態を見せる三津子を、少女Bは「信用できない女だ」と捉えています、一方で、少女Aは「髪の毛ひとすじの疑念もない」状態でいます。
こうした「捉え方の違い」が、少しずつ少しずつ二人の運命を分けていきます。
「この人、この状況、何だかおかしいぞ」という小さな違和感に蓋をせず、異常事態が起こっても正常の範囲内で捉える「正常性バイアス」を排除して、自分が置かれた状況や他者の本性を俯瞰して捉えられるかどうか。
二人の少女の運命を分けた一つの要素は、こうした「客観視する力」なのではないでしょうか。
ちなみに「少女装」の改題前のタイトルは、「餌」を意味する「FEED」。
「賢い人たち」の餌にならずに生き残るためには、馬鹿で弱いなりに自分の置かれた状況を客観視して、強者の餌にされないよう「最悪」を想像して考えて行動するしかありません。
「少女葬」は新潮社のサイトから試し読みできます。よかったら是非▽
弱いなりに愚かなりに、強者の餌になるのは回避して、草を喰みながら心穏やかに暮らすことを目指したいものです。