片付けって孤独な作業です
家の中に溢れた大量のモノと向き合う作業は、自分自身の過去の失敗を見つめることでもあるから。
「こんなモノ買ってばかだったな…」と、見る目のなかった過去の自分を恨む気持ちになることもあるけれど、買った当時の自分にとっては「欲しい」「必要だ」と判断したモノなのです。未来から過去を眺めて「ばかだった」と過去の自分を責めるのは不毛です。失敗から得られた知恵で人類は発展してきたのだし。
私が「買い物の失敗」として真っ先に思い出すのは、20歳の春、池袋パルコで買った変な色のスプリングコート。「先鋭的でオシャレ、素敵」と思ってバイト代をはたいて買ったのに、着ていく先々で「青カビみたい」「スナイパーに狙われるから脱いで」と不評だったため、10回も着用せずに手放した哀愁のコート。
20歳のあの日にあのスプリングコートを衝動的に買っていなければ、私は代金の2万円を失わずに済んだし、親しい人たちから「微妙なセンスの持ち主」とのレッテルを貼られずに済んだはず。
それでも、こうした諸々の損失を踏まえても、いま40歳になった私は、あのとき変な色のコートを選んだ私に「イエス」と言いたい。
買ってから失敗に気づいて、そして「もう要らない」と判断したなら、その時に潔く手放せばいいだけのこと。「あの買い物は失敗だった」と自覚したとしても、過去の自分の行動を責めることはないよね。
経験値を積んだ今の私が、未来から過去を眺めて、無駄に壁にぶつかりながら金と時間を浪費して無様に試行錯誤していた、当時の判断力を総動員して変な色のコートを選んだ20歳の自分を否定するのはフェアじゃないから。
私はこれからもたくさん失敗して、洋服やら雑貨やらカルディで買ってみたけどなんだか口に合わない珍奇な調味料やら、判断を誤った諸々の買い物の結末を、ほぞを噛みながらゴミ袋に放り込んだし排水溝に流したりを繰り返すことでしょう。
己の失敗と向き合う孤独な作業、それが片付け。
先日14歳の誕生日を迎えた中学2年の娘も、目玉をかたどった異形のグミやらパンツを履いたウサギの置物やら、母の目から見たら変で不可解な買い物をしています。だけど、「こんなゴミ同然のモノに楽しそうに課金して、あなたはばかなのですか」と彼女を罵倒することは不毛です。どんなに価値のないモノに見えたって、「いま14歳の娘」にとっては必要な課金なのだから。
買うのも捨てるのも、自分自身の責任において判断すること。
買った直後は「いいモノを手に入れられた」と満足していても、加齢やライフスタイルの変化に伴ってそれが「不要なモノ」に変わるのは当然のことです。
買い物の失敗を認めるのはしんどくもあるけれど、でも失敗のない人生なんてありません。
ばかな失敗を大量に経験してきた、そしてだからこそ不完全な他者への寛容さを身につけてきた、失敗だらけの人生を土台にした大人が好きです。だってそっちの方が面白いし。
ものなんて、要らないと思った時点で手放せばいいんだし。
失敗上等で、いま欲しいモノを買おうよ。
明日も愉快な人生を〜