モノを捨てられない理由は、いくつかある。
「高かったから」「痩せたら着られるかも(洋服の場合)」「置いてあっても邪魔にならないから(巨大な収納空間がある家庭の場合)」…
そして、「まだ使えるから」という、金科玉条。
ちなみに、「まだ使える」は、「まだ使う」や「まだ使いたい」とは、まったく別の状態です。
「まだ使える」は、モノ目線。
「まだ使う」と「まだ使いたい」は、持ち主(人間目線)の感覚だから。
ある意味、「モノを捨てられない人」っていうのは、相手の目線で物事を考えられる、心の優しい人、と言い換えることができるかもしれない。
でも。
もっと「自分の目線」で、モノを残すか手放すかを、判断してもいいと思う。
モノはかなり減らしている、ゆたたんの家だけれど。
年末にキッチンの戸棚を拭いていたら、やっぱり出てきた。
「まだ使える」けれど、「もう使っていない」「もう使わない」モノたち。
それは、「ぬか漬け用のボーロー容器」と、「スープジャー」。
いずれも、5,6年前に買って4、5回使ったきり、コンロ下の収納スペースに保管されたきり出番がなかった品々。
「発酵食ブーム」と「スープジャー弁当ブーム」あったよね。
それに便乗して、買ったものです。
数回しか使っていないから、もちろん見た目は美品。いわゆる「まだ使える」状態。
でも。
目に入るたび、「ブームに乗って挫折した自分」を突き付けられて、胸の奥にちくちくした罪悪感を抱き続けることになると思うんだ。
「どうして、私を使ってくれないの?」
「使わないのなら、どうして私を買ったの?」
そんな風に、モノたちから無言の圧力をかけられているような。
「買う」ってことは、「モノを家に置いておく」ということは、
それほどに責任を伴う行為だってこと。
そして、その責任を引き受けたなら、「手放す時のコスト」にも、向き合わないといけない。
ブームに乗って、使わないモノを家に招き入れてしまった自分。
そうした自分の至らなさを、しっかりと引き受けて、これからの「買い物の仕方」を見直すための、糧にする。
買い物の失敗は、勉強代だと思おう。
「もったいないから」と、「まだ使える(けれども、もう使わない。使いたくないモノ)」を納戸の奥にしまい込んでいくのは、根本的な解決にはつながらないから。
まだ使える。でも、手放す。
そんな、決断。