収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

失うことへの恐怖…モノを捨てられない親世代に思うこと。

「減らすこと」を「豊かさ」と捉えることができたなら、もっと気楽に生きられるのかもしれない。収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

年の瀬が近づき、年末年始の帰省に向けて準備を進めています。

「帰省」のふた文字をキーボードに打ち込むたびに想起されるのは、モノで溢れた実家のこと。居間も客間も台所も浴室も「使わないモノ」で埋め尽くされていて、家の中を移動するにも気が滅入ります。そのため、以前は泊まりがけで帰省していたのですが、ここ数年は日帰りでの訪問を続けています。

 

実父母は元気に暮らしていますが、年を重ねるごとに体力も気力も順当に衰えてきています。

私自身も、来年は不惑(40歳)を迎えます。ちょっと無理をするとリカバリーに時間がかかったり、年1回の人間ドックであれこれ精密検査が必要になったりと身体機能が「失われていく」感覚をじわりと感じています。

これまで当然のように思っていた体力と身体機能が加齢とともに衰えていくこと。それを自覚すること。それはうっすらと怖くて、直視すると底なしの不安に陥っていく感じもします。

70歳を超えた両親は、私以上に、心の底に「衰えへの不安と恐怖」を抱えていると想像します。

そして、心身の機能を「失うこと」への不安と恐怖ゆえ、「モノを手放すこと」を前向きに捉えることができないのかも、とも。

衰えを自覚しているからこそ、これまでの人生で手に入れてきたモノだけは、手放さずに身の回りに固めておきたいと考えてしまっているのかもしれない。

例え、そのモノがモノとしての機能を失っていても、時代に合わなくなっていても、埃をかぶって不衛生な状態になっていたとしても。

 

日本にも、「たくさんのモノを持つこと」が豊かさの指標であった時代が、確かにあった。

そして団塊世代の両親は、そんな時代に生まれ育ってきた。

だから、「モノを手放すこと」を「豊かさを失うこと」と連想しがちなのかもしれない。

彼らの人生の軸をなす「豊かさの指標」を、子ども世代の私が否定することはできない。

 

「両親には片付いた部屋で、心穏やかに安全に老後を過ごしてほしい」と考えるのは、娘のエゴかもしれない。彼らは彼らの人生で手に入れたモノを、例えゴミと判別がつかない状態になっていたとしても、身の回りに並べて過ごすことで心の平穏を保っているのかもしれない。

 

前回、帰省した時に入った実家の台所。箸立てとして使われている古いグラスに、いつからあるのか分からない無数の使用済みの割り箸が刺さっていた。抜いてみると、先端が黒くかびているものも多い。水分が抜けて婉曲した状態のものもあった。

両親が日常の食卓で使っている塗り箸は、別にある。にもかかわらず、使用済みの割り箸すらも、なぜか洗って保管している。いつからあるのか分からない、恐らく使う日は二度と来ないだろう使用済みの割り箸は、捨てられることなく実家の台所でじっと息を潜めている。

 

もし「普段使う、夫婦で二膳の塗り箸」のみを残して、古びた使用済みの割り箸を手放すことができたなら、残した塗り箸への愛着が増して満足感は高まるだろうし、モノが減った台所は今よりも機能性が上がり家事動線もスムーズになり掃除も格段に楽になるだろう。

 

もし、「減らすこと」が「豊かさ」に繋がると、捉えられたなら。

でも、こんな風に両親に期待を押し付けるのも、娘のエゴなのだろうな。

 

あれこれ口を出したくなってしまう衝動を抑えながら、お正月の日帰り帰省を乗り切りたいと思います。

 

娘には娘の、親には親の、それぞれ選んだ「暮らしの形」がある。

自分の力が及ぶ範囲の暮らしを、できるだけ快適に整えていくしかありません。