収納しないブログ

持ち物を減らして収納術不要の暮らしを目指しています

「壊れるまで使う」という美徳、あるいは呪い。

収納しない系お片付けブロガーの優多(ゆた)です。

昨年(2023年)は子供部屋の間仕切り工事をしたり外壁リフォームをしたりと、住まいの修繕にお金をかけた1年でした。家を建てて10年が経ち、ライフスタイルが変化したり経年劣化が進んだり、大掛かりに手を入れるタイミングだったのだなあと思います。

広めのキッズスペースとして用意していた2階の部屋を、長女と次女の個室として二つに仕切りました。

 

暮らしの変化に合わせて定期的に家を修繕していくのは大事なことだと考える私ですが、

実家の父(74歳)は昔から「住まいのメンテナンス」にほとんど手間もお金もかけないタイプでした。

私が生まれる数年前に建てられた家なので、築45年ほど経過し傷みも目立ちます。ですが、外壁リフォームはこれまで一度も実施していません。板張りの壁は色があせ塗り壁部分も黒く煤けていますが、なすがままの状態です。さすがにトイレ、キッチン、浴室といった水回りはそれぞれ1回ずつ修繕を行っていますが、これも設備が故障してからやむにやまれず実施するといった有様。不便さを数年我慢して結局故障してから直すなら、せめて5年早くリフォームすれば費用も抑えられたし、キレイな環境で家族が快適に過ごせたのでは…?と心から不思議に思うのですが、父にとっては「壊れるまで使う」ことが美徳のよう。私とは全く相容れない考え方なのです。

 

父と同居する母(70歳)は、私が中学生の頃に大掛かりなリフォームを提案しました。母屋の隣に小さな離れ(母が書斎として使いたかった)を造る計画でした。全額を母の貯金で賄う予定で、業者に見積もりを取るまで話を進めたのですが、直前で父が反対し実現できませんでした。

この計画が頓挫して以降、母もリフォームを含む「家のメンテナンス」に興味を失ってしまったように思います。

 

父は決してお金がないわけではありません。飲食やレジャーには湯水のようにお金を遣います。ですが、「衣」と「住」には頓着しないのです。シャツの襟がほつれていても、外壁がひどく傷んでいても、全く「興味がない」。だから、そもそも修繕する「必要性を感じない」のだと思います。

 

私は中学卒業と同時に「汚家」を離れ、遠方の高校で寮生活を始めました。

それが「住まいを整えること」に興味を持つきっかけになりました。

自分の意志で自分の部屋に置くモノを選ぶことができるようになり、部屋を心地よく整えることの楽しさ、心に与えるポジティブな影響を実感するようになったのです。

 

父のいう「まだ使える。使えるなら、壊れるまで使う」…、確かにそれはある意味で「正しい」振る舞いなのかもしれない。だけど、住宅関連設備の性能は年々進化しています。壊れる前に、「傷んできたな」と感じ始めた段階で定期的に新しいものにアップデートすることで、より心地よく暮らせる環境が手に入るなら、積極的に投資した方がいい。それが私の考え方です。

 

実父母とは、この「住まいに関する価値観」が全く異なる一方で、

夫とはこの価値観(心地良く暮らすための住まいへの投資は積極的に行う)が一致しています。

これは結婚生活において不可欠な要素だと実感しています。

 

「不便でも壊れるまで使うこと」を美徳と感じるのか。「定期的に最新のものにアップデートして快適に暮らすこと」に喜びを感じるのか。「何を優先するか」のベクトルが一致しないと、どちらかが我慢を強いられることになります。それでは、共同生活はうまくいきません。

 

「壊れるまで使う」は父にとって美徳。でも、娘の私にとってはそうじゃない。

考え方によっては、不便を美徳として我慢することを強要する、「呪い」にさえなりかねない。

 

まもなく後期高齢者となる父。溢れるモノを捨て、断熱仕様にしたり介護を想定したリフォームをしたりと、きちんとメンテナンスされた家で暮らしてほしい、と願う私ですが、本人にその気がないのでは仕方がないのでしょう。

「壊れるまで使う」は、私にとっては呪いに近い考え方だけれど、父にとっては美徳だから。

お互いの価値観を尊重し、自分の暮らしを守ることに専念するしかありません。

 

明日も愉快な人生を。