「選んでいるのは、自分だ」と思えることって、すごく大事だと思うの。
「選ぶ」対象は、きょうの昼ご飯のメニューであったり、仕事の合間にのむセブンイレブンのアイスコーヒーのサイズであったり、髪の毛をしばるゴムの色だったり、する。
それは、自分の意志で選べる分野の物事で、そうした自分の意志を介在できる種類のモノやコトを、しっかり「自分で選んでいる」という感覚は、とても大事だと思うの。
日々は、「自分の意志では、どうにもならない物事」だらけだから。
会社員であるなら、意に添わない異動もある。
意に沿わない行動をしてくる同僚もいる。
「なんで、今日に限って?」というタイミングで熱を出す子供。
サムゲタンがどうしても食べたくて馳せ参じた韓国料理店が、何故か臨時休業していたり。
そんな、ままならないことばかりの人生だからこそ、選べるモノは、きちんと意志を持って選んでいきたいと思うの。
美味しいもの、うつくしいもの、肌触りのいいもの、やさしいもの、愉快なもの、
そうした物事をきちんと選び取っていきたい。
「愛されているモノたちだけ」が集まった部屋は、なんとも愛おしい。
「?」なヌイグルミや画用紙でできた帽子、謎のメダル。
生きていくのにはちっとも必要ではない物たちは、愛されてそこに残されたモノたちである。
次女(9歳)にとっての、「いま、最も愛を注ぐべきものたち」(許可を得て撮影)
片付けは、「選ぶ」ことの繰り返しと積み重ね。
残すものを選ぶことは、手放すものを選ぶこと。
「場所」は有限だから、ちゃんと美しく(自分自身にとって)価値のある物事を選んでいかなくちゃ。
そして1日24時間という、人間の持ち時間も有限だから、
つまらなくてどーでもいい「コト」に、大事な時間を割くのはやめよう。
大事なのは、「選んでいるのは、自分だ」という感覚。
片付けも、人生も。
どうせなら、「自分の意志で選べる部分」だけは、
美しく愉快な物事で日々を満たしていたい、と思う。