街中華で瓶ビール、の楽しさに夢中になっている収納しない系お片付けブロガーの優多です。
街は日曜日に向けて「マザーズデイ仕様」になっています。帰路の花屋さんにはカーネーションや紫陽花の鉢植えがずらりと並んでいました。
週末には地元に帰って、母に贈り物を届けよう。
そんな温かい気持ちで鉢植えを眺めながら、でも、ふと心の底でざらりと暗い気持ちになるのは、今に至るまでやはり「使わないモノ」に溢れた実家のこと。
「片付けの価値観」は人それぞれだから、上手に空間的な距離を保つことで、「親は親」「自分は自分」と割り切って生きていくしかないのだけれど。
母の日直前の花屋の店先を目にした時など、ふとした瞬間に、
「もし、散らかった家に生まれ育っていなかったら」という不毛な「もしも」を空想してしまう。
「モノの多い実家」についての過去記事はこちら▽
もしも、散らかった家に生まれていなかったら。
高校は実家から通ったのかもしれない。
もしも、散らかった家に生まれていなかったら。
「一人暮らしをするため」に、15歳で寮暮らしを選ぶことはなかったかもしれない。
もしも、散らかった家に生まれていなかったら。
「片付けのセオリー」に強い興味を惹かれることはなかったかもしれない。
もしも、散らかった家に生まれていなかったら。
「収納しないブログ」などという名称をつけた媒体で匿名の記述を3年以上も続けることはなかったかもしれない。
もしも、散らかった家に生まれていなかったら。
「モノとの関係も、人間関係も有限」など、はっきりきっぱり割り切りがちな思考を持つことはなかったかもしれない。
そんな風に考えると、
「散らかった家」に生まれ育ったからこそ、
今の私があるのだともいえる。かもしれない。
私は、モノが少ない、よって複雑な収納術を必要としない、片付いた家で暮らしたい。
快適な空間で、ごろんと床に転がって、手足を伸ばして暮らしていたい。
そういう「望む暮らし」を自分の力で選び取るために、そのために必要な収入をきちんと自分で得ていくために、働いていたい。
そんな、現在の自分の軸になっている考え方は、
「散らかった家」に生まれたことで育まれたのかもしれない。
そう思うと、
全てはご縁なのかもしれないと感じる。
散らかった家で楽しそうに暮らしている母に、
産んで育ててくれた母に、
きれいに咲いて、きちんと枯れる、花束を贈ろう。
そんな、マザーズデイ直前の金曜の夜。