収納しない系お片付けブロガー、優多(ゆた)です。
今でこそ、「ミニマルな暮らし」を推奨する立場でブログをせっせと更新している私ですが
生まれた家はかなりモノの溢れた家でした。
祖父母、両親ともに、いわゆる「捨てられない世代」。
どう好意的にみても「がらくた」「粗大ごみ」としか呼べない大量のモノが、
母屋の押し入れにも作業場にも倉庫にも詰め込まれていました。
広大な収納スペースを備えてしまっている「田舎の家」は、不要なモノも「とりあえず保管」できてしまうのでタチが悪いのです。
自分が住んでいる家が「モノの溢れた家」であることを自覚したのは、
小学生になって友達の家に遊びに行くようになってからだと思います。
友達の家だって、雑誌に出てくるようなオシャレインテリアの邸宅などではなかったですが、
それでも収まるべき場所に収まるべき量のモノがきちんと片付けられていて、それだけで「居心地が良いな」と感じることができました。
そして、
あー、私の家って、散らかっているんだなぁ、としみじみと自覚したのでした。
私が「モノとの向き合い方」を考えるきっかけになった、
原体験を記した過去記事はこちら▽
「自分の家が散らかっている」ということを自覚してからは、
子供ながらに「片付いた家に住みたい」という欲求が芽生えて
みかん箱を改造して棚を作り、居間に溢れた古紙類をまとめるスペースにしてみたり
空き缶を改造してペン立てを作り、ちびた鉛筆をしまっておく場所にしてみたり
色々と試行錯誤していた時期がありました。
ただ、「実家」はあくまで祖父母の家であり、両親の家であり、
子供の私はちょこちょことモノを移動させたり収納場所を手作りしたりすることはできても、好き勝手に「溢れた不要なモノ」を捨てる権利はありませんでした。
自分にとっての心地良い場所…すなわち「少ないモノが整然と並んだ、凝った収納グッズを使わなくても快適な状態に整えられた状態の部屋」に暮らすためには、経済的に自立して、自分で「心地良い場所」を手に入れるだけの力をつけないといけない。
小学生ながら、そんな決意を抱いた私。
この子供時代の「実家が散らかっているという自覚」と「片付いた家に住みたい」という欲求が、私の今に繋がっているのだと、しみじみと思います。
私は自分にとっての「心地良い場所」を手に入れるために、
働くし、モノを適正な量に保つ工夫をする。
それは「自由」を手に入れるための営みなので、あんまり苦にはなりません。
不要なモノに囲まれて、
身動きの取れない窮屈な部屋にいるよりも、
モノの少ない広々とした部屋で手足を伸ばして寝転がりたい。
それが、私の「片付けたい欲求」の原点です。