わたしが子供だった頃、家のなかには脈絡のない「花柄」があふれていた。
台所と廊下のあいだに吊るされたナイロンの暖簾には巨大なアサガオの模様、
居間のちゃぶ台にかかったレースの布はバラの形に編まれていたし、
風呂場に大量に積まれたタオルには、それぞれ名前の分からない大小の花の模様が全面に織り込まれていた。
母親がバザーで買ってきたコースターはこれまた名前の分からない小花柄。
ドアノブに花柄(これも名知らず)のカバーがかかっていた時期もあったな。
とにかく、ありとあらゆる「インテリア」及び雑貨に、意図があるのかないのか、個体名の良く分からない「花」が、印刷されていた。
なんだったんだろう、あの「花柄」たちは。
時代は平成の初期だったろうと思うけれど、あれらのものはたいてい、おそらく昭和の時代から我が家に存在していたモノだと思われる。
そんな記憶のかなたの「脈絡のない花柄」のことを突然、思い出したのは
隣の席の同僚の机に、昔なつかし「小花柄」のタオル(手ぬぐいサイズの、あれ)がちょこんと置かれていたから。なんてノスタルジー。
同僚(同世代)に「なつかしい感じのタオル使ってんね」と声かけたら、「仕事先でもらった」んだって。粗品の余りかな? じっくり柄を見せてもらったら、どうやらスミレと四葉のクローバーが交互に並べられている。なんでスミレとクローバー? とか、意図は考察せずにいるのが賢明かもしれない。洗濯するたびに色あせていくであろう糸の色に人の世のはかなさを重ねてみる。
あの頃の、脈絡のない「花柄」であふれた、私の家。
母や祖母が、意図をもってそれらの「インテリア」を選んでいたようには、思えない。おそらく、なじみの工務店や自動車整備工場や床屋さんでもらった「粗品」だったり、近くのホームセンターで中くらいの値段で売っていた日用品だったりしたのだろう。それらが「意図もなく」集積されていった結果、家のなかは季節感のない花壇みたいになっていた。
いま、わたしが家のなかで使うものに「花柄」を選ぶことは、ほぼない。ざっと家の中を見回して目につくのは、子供部屋のソファに置いたクッションカバー(けしの花)くらいか。できるだけ無地がいい。「雑音のないデザイン」がいい。
そう。
「モノ」というのは、それ自身がもつ色や大きさや佇まいでもって、「しゃべる」のである。雑多な色と大量のモノがあふれた部屋は、「うるさい」のである。それが気にならない、もしくは騒がしいのが好みであるならば問題ないのだけれど、私は部屋は静かなほうがいい。「にぎやかでおしゃべりなモノ」たちよりも、「寡黙な性格で、一人で本を読んだり昼寝したり音楽を聴いていたりするのが趣味」みたいなモノたちと、信頼関係を結びながら日々を過ごしたい。
私が好むところの「寡黙なモノ」たちのなかにあって、「わたしはここよ!」と主張する、1本だけ残ったニンジン。
こういう脈絡のなさは、私、好きよ。千切りにしてサラダにして食べよう。
そんな、月曜日。